DOG'S HOTEL
真葛家の犬達
チロの飼い主(チロM)
狛飼紫香は気後れしまいと胸を張った。
車を降りてその玄関に立ったときから、歴史と重厚感のあるその屋敷の門は獣が大き
く口を開けて迫ってくるような脅えを紫香に感じさせていた。
紫香は弱気を振り払うように頭を振り、もう一度、背筋を伸ばすと此の家の執事に狛
飼家の紫香と自己照会した。老人は軽くうなずき「お待ちいたしておりました」と語
ると紫香を屋敷内に導き廊下を先導した。
廊下は広く長く、廊下の脇には幾つもの部屋が在った。幾つかの扉を通り過ぎた。厚
い絨毯がひかれ屋敷内は物音一つしなかった。ただ、紫香のシルクのワンピースの衣
擦れの音だけが廊下に響き、時折、開けられた部屋のドアから見える窓には日の光が
差し込んでいた。そこからかすかに見える景色はまるで深い森の中のような鬱蒼とし
た木々の重なりがあり、鹿の歩く影が見え隠れした。この様な場所が都市近郊にある
こと事態、紫香には信じられない思いがしていた。
黒光りのする大きな机の向こうに真葛家の奥を総括するという伊那という太った老婆
が紫香を見つめていた。
執事に案内された部屋は、屋敷のかなり奥まったと思える場所であった。
古いが頑丈で何処そこもすべて、美しく重厚に置かれ、四方の太い柱など顔が映るほ
どに磨かれていた。部屋の外に広がるバラガーデンにそそぐ光は強く、なおさらに紫
香の居る部屋を暗く感じさせていた。
伊那の話は続いていた。
「狛飼家は永い間、真葛家に仕えてきたのです。数ある家臣の中でも狛飼家の者は真
葛家の当主となられる姫の最も身近にお仕えする家として特に大切に扱われてきまし
た。」
伊那は一息つくと、しばらく間を空けてから話を続けた。
「それというのも古く曽我家の時代に萩麻様という、姫がいらっしゃいました。姫は
大層犬好きであられ、中でも太郎丸という犬を大変可愛がっておられました。しかし
不幸にも太郎丸は病で亡くなってしまいました。姫は大層嘆き悲しまれました。あま
りに姫がお嘆きになるのを見かね、ある奥仕えのJ侍女が自ら犬となって姫をお慰めし
たのです。その時よりその侍女に狛飼という家を与えられ、代々、姫の飼い犬として
真葛家に仕えてきたのです。」
紫香にとって信じられない話が続いた。
「姫様のお好みによって何代か雄をお飼われになったこともございましたが、僅かな
一時期を除き、雌犬をお飼われになって、代を重ねてまいりましたのも皆、姫様の深
いご寵愛と狛飼家の忠誠心の賜物でございます。この様な事もあったそうにございま
す」伊那は言葉を切った。
「それは慶長のころ、若くして姫がお亡くなりになりました。その飼い犬であった狛
飼の雌は姫の墓前に寄り添って毎日座り続けました。強く姫をお慕い申していたので
しょう。周りの者は皆、狛飼のものを労り餌を与えようとしましたが一切口を付けず、
ついには衰弱して亡くなりました。その事は多くの者の涙を誘い、狛飼のものの忠誠
心を褒め、その亡骸は姫の足元に葬られたのです。その後、姫様がお亡くなりになる
と、その飼い犬である狛飼の雌も殉死させ、姫が寂しくないよう、足元に葬る様になっ
たのです。不幸にして、ご寵愛半ばにもかかわらず狛飼が先に亡くなった場合など、
死して虎は皮を残すの言葉のごとく、狛飼の雌の皮は姫様の敷き物として足元でお仕
えするのです。それは現在まで代々続いており、その皮は宝物殿に大切に納められて
います。それゆえ真葛家は狛飼の家を大切に保護してきたのです。」
伊那は紫香の顔を覗き込む様に見据えた。紫香はその眼光に萎縮し、また、今までの
話に混乱し、ただただうつむくばかりであった。
「わたしはあなたを生まれる時から存じていますよ。奥院でももっとも奥にある松蔭
の庭の犬小屋で、あなたは姫様や侍女に見守られながら生まれたのです。生まれたば
かりのあなたを姫様は抱き上げられ、『これは良い仔犬です。きっと次の姫に可愛が
られるでしょう』と、お言葉をかけ、なんと頬摺りまでなさったのです。あなたを生
んだ狛飼の雌は誇らしげな顔をして姫様を見上げた事を私は覚えていますよ。そして、
姫様は犬小屋をご自分の部屋の前庭に移され、あなたは乳離れするまで、狛飼の雌の
犬小屋で飼われたのです」伊那は視線を遠くに移し記憶を辿るように、懐かしげに話
を続けた。
「姫様はよく、あなたを見に犬小屋を覗き込まれたものです。また、はいはいが出来
るようになると、四つん這いの狛飼の雌の垂れる乳房に下から吸い付いて乳を飲むあ
なたを姫は目を細め、愛情深くお部屋の窓からご覧になっていらっしゃいました。
その後、あなたは姫のご方針で真葛家の屋敷の外に放し飼いにされました。今まで、
狛飼の雌は真葛家の屋敷内で飼われてきたのですから、異例の事でした。あなたの養
父を勤めた四井家の者も狛飼の雌の素性は知らされていません。真葛家の姫のお側に
お仕えする身ということで、腫れ物に触るように扱われてきたことでしょう。あなた
のことは逐一漏らさず、わたくしに報告が入っています。巷では、真葛家の後威光を
傘にずいぶん好き勝手な事をしてきたようですね。大型ヨットに役者などを大勢集め
てパーティーを開いたり、パリのオートクチュールの店の服をすべて買い占めたり、
その度にわたくしが注意しようとすると姫が笑って、お許しになっておられたのです。
あなたは存じておりましたか」
伊那は机の向こうから紫香を見下ろしている。
紫香はもちろんそのような事は知る由もなかった。銀行頭取を勤める養父も大臣であ
る養父の叔父も四井家はもちろん、国を支える企業のトップもが紫香のわがままに従っ
てきた。紫香は真葛家の本当の力がどんなものなのか、よく知らなかったが古くから
此の国の中枢に位置する力のある家であり、わたしは何時か真葛家の姫のもっともお
近くに仕えるのだと意識させられてきた。この大臣さえ顎で使う私が家来として仕え
なければならないことに反発も感じていた。しかし、真葛家に仕える身であるがゆえ
に紫香のわがままが通るのであって、そうでなければ父も母もいないただの若い女で
しかない事は何かあるごとに感じてきたことであった。真葛家に上がる日が近づくに
したがって紫香は、真葛家に上がる事は仕方がないこと。しかし、仕える相手はわた
しと年の近い娘、何を気後れする必要があるのか。私が主導力を発揮して、私の言う
ことを聞かせれば良いではないか、と、考えを巡らしていた。その思惑が根底から崩
れてしまっていた。
紫香は頭が錯乱しそうな中に身を震わせながらも伊那の話に引き込まれていた。
「もちろん、あなたはあなたを生んだ狛飼の雌を覚えてはいないでしょうね」と静か
に後ろの書棚からアルバムを出すとページをめくり、紫香の前に広げた。
初夏の庭であろうか、白いワンピース姿の一人の女性が白いフリルの付いたパラソル
を差して、この上もなく優雅に立って微笑んで居られた。両手でパラソルを握る他に
房の付いた濃紫の紐も握られ、その紐は足元に垂れて、犬の首輪に繋がっていた。そ
の首輪をしている犬は人の女の姿をしていたが、血統が良く、躾の行き届いた犬のよ
うに女性の足元に四つん這いでいた。
伊那は手のひらで写真を示すと
「この方があなたをお抱きになった陽美瑚様です。そして、もう分かったでしょう。
足元にお仕えしているのがあなたを生んだ狛飼家の雌犬、加賀美丸です。姫様に心よ
りお仕えする大変美しい犬ですよ。あなたも、加賀美丸の子です。狛飼家の誇りを持っ
て、次の当主であられる姫様に可愛がられるよう、心してお仕えしなければなりませ
ん。」
伊那はそう言って、頁をめくると「見てご覧なさい。この肩から尻のライン、くびれ
て細い腰の美しさ、特に四つ足で歩きやすくさせた短い足。真葛家が狛飼の犬の品種
改良の為の交配を繰り返されきた結果この様に、忠誠心に富んだ愛玩動物としての適
正が備わった獣ができたのです」
紫香はその写真に映っている動物を見て美しいと思った。
そこには紫香を生んだ狛飼の雌が後ろ足をずらした横座りをして、正面を向いていた。
目は優しさに溢れ、その肢体は柔軟さを示し艶やかであった。胸には張りがあり、後
ろ足の付け根は綺麗にしており、僅かな膨らみの間を一筋の陰が走っていた。写真の
ネームには『加賀美丸・雌・28』と書かれていた。
紫香は伊那に即されて、アルバムのページをめくっていった。そこには陽美瑚様と戯
れる加賀美丸の日々の姿が多数写されていた。棒拾いの加賀美丸、ピクニックで餌を
投げ与えられている加賀美丸、陽美瑚様の足にじゃれつく加賀美丸、粗相をしたのだ
ろうか陽美瑚様に鞭打たれている加賀美丸。
伊那に白いハンカチを渡されてはじめて紫香は気が付いた、大粒の涙が頬をつたわっ
てアルバムを濡らしていたのだ。姫を丸め込もうという思惑が外れたからだろうか。
出生の秘密を知ったからだろうか。自分の母親が愛玩動物として仕えていることだろ
うか。自分がみじめな犬に成り下がるからだろうか。
紫香はどれもみな違うような気がした。伊那から渡されたハンカチで頬を伝う涙を拭
くことさえ忘れ、膝の上でハンカチを両手できつく握りしめていた。
紫香の心情にかまわず伊那が示した写真には美しく飾られて優美な牛車に陽美瑚様が
十二単でお乗りになり、加賀美丸が牛となって、次女に鼻輪を曳かれている雅な写真
であった。
「春の歌会に奥の院の黎明の館から同じく奥の院の北の真清院へお出かけになるとこ
ろです。そこでも加賀美丸は大事なお役目を果たしているのです」
続けて伊那は紫香に目を移すと、「いつか、加賀美丸と合うことになるでしょうが加
賀美丸が恥ずかしく思うような、狛飼家の犬では困りますね。巷の垢を落とし、狛飼
家の雌として立派な犬にならなければなりません。あなたが放し飼いになると同時に、
あなたの今を想定して家臣に『DOGS HOTEL』という雌犬訓練士養成のため
にホテル兼訓練所を作りました。そこを立派な成績で卒業したあなた専属の訓練士を
紹介しておきましょう」
伊那は机の上の鈴を軽く鳴らした。
ドアを開けて入ってきたのは、黒のシルクのブレザージャケットを粋に着こなした美
しい女であった。
伊那は「雌犬の訓練士の犬飼家の麗子ですよ。獣医の資格と心理学の研究もなさって
おいでの才女です。あなたの躾や訓練から健康状態やメンタルな面まですべて麗子が
管理します」
「あなたが紫香ね。綺麗な雌なので嬉しいわ。私はDOGS HOTELで多くの雌
犬の面倒を見てきました。真葛家の犬のお世話をするのが、犬飼家が代々真葛家から
与えられたお役目なのです。私の母は加賀美丸をお世話してきました。今度はわたし
があなたをお世話します。永い付き合いになりますから、よろしくお願いしますね」
と、にこやかに紫香に微笑みかけて、紫香の頭を優しく愛撫した。紫香はそれを気持
ちよく感じていた。
そして、紫香の顎に手をかけて上を向かせて瞳を覗き込むと「さあ、服を脱ぎなさい。
犬が服を着ているのはおかしいわ」
そろそろと服を脱ぐ紫香に手を貸しながら「あなたが服を脱ぐのはこれが最後ね、服
を着ることはもうないのだから、代わりにこれがあるわ」と、伊那が引き出しから出
して机の上に置いたベルベットの箱を開けて慶子が取り出したのは、ダイヤで飾られ
た首輪であった。
「四つん這いになりなさい。首輪を付けて上げる」夢遊病のようにふらふらと紫香が
厚い絨毯に手を突くと、麗子は紫香の横に片膝を付き紫香の首に首輪をかけた。
首輪の鍵がカチリと乾いた音を立てて閉まった。
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